プロフィール


 

プロフィール詳細

  195○年7月のお昼頃、群馬県伊勢崎市で無事に生まれる。
生まれた時の記憶はない。

父親が伊勢崎の人で母親が埼玉県の深谷の人だったので、
二男の私は、父親の実家で生まれたらしい。
だから長男の兄は子供の頃、東京生まれを自慢していた。
物心ついたときは埼玉県の深谷市(長葱が有名)にいて、
家は借地の小さな家だった。


「飴ちゃんち!」と言われていたので、うちは飴屋をやっていたらしい。
だが、その時の記憶は私にない。
母に、「なんで菓子屋をやめちゃったの?」と聞いたことがあるが、
「お前達がみんな食べちゃうから、商売にならなかったんだよ。」と言われた。
お爺ちゃんは菓子職人でよくカルメラを作ってくれた。
(でもこの人は酒乱だった。)


樫の実保育園、小鹿幼稚園、深谷幼稚園と、いつも置き去りにされ、泣いていた。
今も「小鹿のバンビ〜は、かわ〜いい〜なあ。」の歌がこびりつく。
父親は事業と称して、東京で行方不明だったので、


小さい頃は、しゃべったこともない。会うと泣き出すほどだった。
知らないおじさんと思って怖かったんだろうね?
でも、それが父親を遠ざけたような気がして、ちょっぴり後悔もする。


深谷小学校の低学年の時は、よくできる女の子がいて、
算数も硬筆もその子には全くかなわなくて、とても悔しい思いをした記憶が残る。
中学2年で同じクラスになったが、やっぱり同じ。


彼女は女子でいつも学年トップだった。
(御茶ノ水女子大に行ったと言う話は聞いたが、その後の事は知る由もない。)
小学校4年で転校。


借地を追い出されて、市営住宅に入った。
今じゃ考えられないが、簡単に地主に出されてしまった。
父親にあとで怒られたと言うが、行方不明の父親が悪いのだから、
怒るのも筋違い。


でも、今こんな仕事をしていると、「契約が母親でなんで処分できたんだろう?」
「建物の滅失登記はどうしたんだろう?」とか色々な疑問があるが、
昭和40年位のこと、建物の登記もされてなかったのかもしれない。


転校生はやはりいじめられるのが常のようだ。
街中(まちなか)から田舎の小学校に移った。
(まあ50歩100歩だけどね。)
「あかぬけてる。」なんて言葉使われて、意味不明。
たまに帰ってきた父親は、よく服とか色々なものを買ってくれた。
(相変わらず口はきかず。)
いつも洒落た乗用車を運転していた。そんな父親のおかげだったのかしらん?


転校生は少し頑張って勉強した。
そしたら、成績がクラスで1、2番になった。
その時は、テストで席順が決まっていたので、やっぱり一番前になりたかった。
(クラスで推薦されて生徒会にも立候補したが2回も落選。
どうもこのころから落ちるのが得意?)


深谷中学に入ったときには、暗かった。
母親が再婚して、その人が一緒に生活するようになったから。
兄は中2でその人と戦争し、父親のほうに退却してしまったので、
兄はもうその中学にいなかった。


でも、中2でいいクラスにめぐり合い、少し明るくなって、クラス委員長にも選ばれるようになった。
でも、不幸は突然やってくる。マラソン大会の後、視界が段々狭まった。
網膜はく離という病気だった。日大病院に緊急入院し、手術した。
そして入院は4ヶ月近くも続いた。
でも、家にいないことが嬉しかった。
眼帯されて何も見えない生活が3ヶ月位続いたけれど、
看護婦さんが優しかったので苦じゃなかった。
中3になる前の春休みに退院した。
外来の診察日が楽しみだった。


何故って、看護婦さんに会えるからに決まっているでしょう?
でも、授業に出られない間のノートを丁寧に取ってくれた女の子がいた。
分厚い一冊のノートが嬉しかった。
青春だよね。好きだったけど好きとも言えず。
そう、家庭のコンプレックスがあったから。
母親は、経済的に楽になると思って再婚したと思うが、
決してそうはならなかった。


最初の半年位は真面目に会社に行っていたが、段々仕事をしなくなった。
子供も生まれ、母はどうしようもなかった。
だから中3の自分は、子守りが仕事。
11歳年下の弟の育ての親は私なんです。 オシメも、ミルクも私がやった。
弟は、生まれつき血小板が少なく、そのためまずいミルクを飲まされよく泣いた。


197○年4月、ノートをとってくれたその彼女のおかげで、
地元では進学校の熊谷高校に入学した。
少し体格も良くなったので、やっぱり兄と同じく戦争を仕掛けた。
で、高校1年から安普請のアパートで一人暮らし。
当然、いけない子達の憩いの場と化す。
1年の1学期だけクラスで10番くらい。その後は卒業するまでずーとビリ。
それも学年でビリのおまけつき。ここまで来ると有名人。
熊谷駅で嫌いな男の子に待ち伏せされた。


ドロップアウトの子の部活の定番は応援団と決まっている。
私は応援団長になったが、一度も応援に出かけたことがない。
(体育館の壮行会のみだ。)
唯一の出張応援の機会は、甲子園の県予選だったが、私は盲腸で入院していた。
あまりにもの不甲斐ない応援ぶりで、OBから大変ヒンシュクを買ったらしい。
こういうところは、私は本当についている。


修学旅行も夜中に抜け出したのが発覚して、旅館謹慎。
京都の町も夜しか知らない。
入った店は「ある恋の物語」と、店の名前が洒落ていた。


高校3年間は、「積み木くずし」の時代だった。
でも、それでも卒業できたのは、やはり熊谷高校だったから?
授業もほとんど出ていなかったので、退学届も書かされた。
卒業式は、本当に卒業証書がもらえるのかドキドキしていた。
(でも「来るな。」とは言われていなかった。)


卒業したのはいいけれど、就職指導なんてなかったので、とりあえずは素浪人。
浪人したって、予備校へ行くわけでもなく、バイトしながら夜は赤提灯。


赤提灯のマスターに受験間近の1月に怒られた。
「中途半端なこといつまでもしているな!大学行くなら勉強しろ!」って。
出入り禁止になって猛烈に勉強した。
国語と英語は少し貯金があったので、世界史だけ、とにかく暗記。
それでも世界史はいくらも点が取れなかったが、
日大の経済と法学部だけが引っかかった。


法学部の方がカッコいいでしょう?だから私は日大法学部の卒業です。
でもね、一度レールを外しちゃうと、中々優等生にはなれないんです。
日大カラス軍団に追われ、やはり授業はほとんど受けなかった。
(親不孝モンです。)


それでもいい友達はいるものです。
やっぱりノートを貸してくれるいい友達が・・・・。
日大オールラウンドスポーツクラブの仲間がね。
その人達、1年の時の同じクラスの仲間同士で正式なクラブを作ったんだ。
自分はカラス軍団にいたけど、逃げ回っているのを知って、
よく声をかけてくれた。


だから、今ではゴルフのOB会でも、飲み会でもほとんど出席。
彼らのおかげで、可山優三で卒業できました。


私立文系、成績表がほとんど可しかない私が就職できるのは、営業だけでした。
就職活動は4年生の10月から始めて、
「どうせ営業なら、数沢山売らなくてもいいものにしよう。」と思い、
選んだのが住宅です。「数沢山でない方が楽だ。」と思ったんです。


ミサワホームと大和ハウス。
大和ハウスに行くつもりでしたが、転勤が多そうだったので、
ミサワホームを選びました。ミサワホームはディーラー制でしたので、
埼玉だけだったんです。
やっぱり母の近くにいてあげたいと思った。


198○年3月、日大法学部を無事卒業して、
4月にサイサンミサワホーム(現ミサワホーム西関東)株式会社に入社。
入社当時はパンチパーマでしたが、最初の赴任先の行田営業所で、
ちゃんとした社会人にしてもらいました。
ミサワに入ってからは意外に順調で、1年目に13棟契約して新人賞。
2年目に19棟契約して、係長にしてもらいました。
(18棟で係長に昇格、売れなければ降格の世界。)
行田の地に配属というのも私には良かった。


熊谷市の隣りですので、「熊谷高校出身です。」と言うと、
結構可愛がってもらえた。
高校時代はあまり学校に行っていなかったのに、
しっかりその辺のネームバリューは使った。
それで調子に乗って勢い余って、結婚までしちゃいました。
(お客様にご祝儀まで頂いて恐縮です。)
3年目に浦和(現さいたま市)に転勤。
ここでは苦労しました。


県北のほうは結構、企画(規格)住宅で売れていたのですが、
県南は土地も狭くなるので、ほとんど自由設計。
なんせ私は私立文系。注文住宅のプラン設計が苦手でした。
でも、ここにもいい先輩がいて、プランと遊びを教えてもらいました。
(まあ、この先輩に誘われて平成2年にミサワを辞めることになるんですけど・・・・。)


4年目からは春日部市に行き、5年で80棟ほど売って営業課の責任者になった。
6年目は年上の課員をうまく使えず、挫折。
7、8年目は新卒中心の課員構成でやっての同行三昧。体もたず。
朝から晩まで会社で、子供はなつかないし、
(あら不思議?子供の時の自分だわ。)
「パパなんかゴミ箱にポイッとしちゃうの。」なんて言われる始末。
(カミさんが言わせた?)
辞める年の3月に、課で10棟やって「燃え尽き症候群」。


1990年、先輩と独立。妻は別にとめませんでした。
バブルに乗ってバンバンと土地を買って、建売をやり、
家が完成する頃はバブルが崩壊。
売っても利益なんて出やしません。1992年には撤収。先輩ともさようなら。


その後その先輩は成功して、沢山の賃貸マンションの受注をとり、
よく私を夜のクラブ活動に誘ってくれた。


1996年3月からは、有限会社こもだ建物を設立し、
とても地味に仕事をしています。
あっという間に十数年。相変わらず建売分譲をやっても儲からないので、
土地の仲介、建設工事を中心に、お客様とのご縁が頼りで仕事をしてます。


ミサワ時代からだと20年以上のお付き合いの方も沢山いらっしゃる。
とても幸せなことですね。


そうそう、日大法学部の友人だって、ちゃんと弁護士になった人だっています。
たまに仕事くれます。
無料電話相談もやってもらいます。でも肝心な時につかまらない人です。
(避けられてるだけ?)


またミサワで1985年1月に契約を頂いた時に、
契約に立ち会っていた御施主様の中学生が、
やはり今、弁護士をされています。
(さいたま市条例違反の時は大変お世話になりました。)


時の流れは本当に早いもの。

大学の仲間もすっかりみんなおじさんで、かく言う私も成人3人息子の父親です。
仲間の中には、私が仲介したり、家を建てたりの人もいます。
(ローンも大変だぜぃ。)


うちの長男のところは、娘が生まれた。


いよいよ じぃーじぃーですぅ〜

追伸:

何故か三男が私が辞めたミサワホーム西関東株式会社に入社して営業マンやっています。

あら、不思議・・・



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